カテゴリー: 日常生活


がんばってるよ

いろいろと新しい課外活動も加わって忙しくなってきたけれど、元気にしているよ。  全文を読む »

海を超えてお便りが届くと嬉しいものだね。  全文を読む »

千代田の空

何処の地に住居を構えるか。 実に基本的なことのようだが、この年になるまで、その選択を迫られる事も無いままだった。 全文を読む »

イブのハプニング

今夜こそは早く迎えに来てね。 全文を読む »

東京はポカポカ

これは、私達親子の口癖。 全文を読む »

表参道。丸の内。都心の街角でも、華やかな飾りに息を呑む季節の到来です。 全文を読む »

東京メトロの風景

暫く、更新を怠けていました。東京に越してきて、通学にしろ、遊びに行くにしろ、都心でのメトロ三昧の生活です。 車社会で育ったダニエルと妹には、最初のうちこそ、電車に乗ること自体が新鮮な体験でしたが、さすがに来る日も来る日もそれを続けていると当たり前になってしまいました。おまけに、地下鉄だと景色を楽しむ訳にもいかず、スーツ姿の会社員に混じって、じっと立っている(座れる方が限られているので)のも、いい加減いやになったというのが実情でしょうか。

こんな日々の中、二、三年前にコラムに執筆したエッセイを思い出しました。(但し、これは景色が眺められる電車についてですが。)

電車に乗ろうよ

初めて手にした定期券に誇らしささえ感じた12歳の春。あの日を皮切りに電車通学、ひいては通勤の日々が始まった。車内も一つの小さな社会であり、おのずから人間観察の機会もあれば新しい出会いもあった。だが私がこよなく愛していたのは車窓越しに眺める景色である。夕暮れ時の商店街。線路沿いの道に並ぶ自転車。ベランダにはためく洗濯物。絵葉書を飾るような美しい景色とはかけ離れた日常の風景に心を惹かれた。

もう10年以上も日本に足を踏み入れていない私は、それだけの期間、電車にも乗っていないことになる。(アムトラックに乗ったことはあるが、あれは異なるものとしか思えない。) それでも悲しい時には、心の中で切符を買い小さな旅に発つことにしている。プラットホームへと続く懐かしい階段を上り、やつれた表情で週刊誌を読むサラリーマンや、流行の服に身を包んだ女子大生の傍に立つ。やがて各駅停車が滑り込む。ドア近くの手すりにもたれて立ち、ガラス越しに広がる世界を見つめる。

そこには無数の物語が眠っている。あの団地で洗濯物を取り込む主婦は、夫と子供の世話だけで人生が終わるのかと溜息を洩らしているかも知れない。あの雑居ビルの一角にある事務所では、ネクタイを緩めた中年男性が窓際に立ち、子供を連れて家を出た妻に電話をかけようかと思いあぐねているかも知れない。そして踏切の前でコートの襟を立てる青年は、不採用通知が溜まる中、今日も失敗に終わった就職面接に落胆し、そろそろ郷里へ帰ろうかと自問自答を繰り返しているかも知れない。

やがて主婦は家族の好物である炊き込みご飯を作る為に台所に立つ。中年男は受話器を握り締めながら、息子が興奮気味に語るサッカーの試合について聞き入る。そして青年はアパートに帰り、母から届いた宅急便を開く。それぞれの主人公が、時には唇を噛んだり涙をこらえたりしながらも、ドラマに欠ける日常の中で拾い集めたささやかな喜びや感動を後生大事にポケットにしまい込んでは明日への希望へと繋ぎ、人生という名の旅を続けているのだ。

悲しみに心を覆われる時、私はつい自分を悲劇の主人公に見立て自作自演をしてみたい誘惑にかられる。そんな自分の肩をそっと叩くように、「旅に出ようか」と心の中で呟く。薄明るい改札口を抜けて現実の世界に戻る頃には、少しだけ、そう、ほんの少しではあるけれど悲しみが薄らいでいるような気がするのだ。いつかは息子と娘も親には打ち明けられない悩みを抱え、自室に閉じこもり涙を流す日が来るのだろう。そんな時は敢えてドアをノックしようとはしない。でも遠くから祈るように呟きたい。「電車に乗ろうよ」と。母として、人生の先輩として。

大すきなチェスのトーナメントで がんばって かっこいいメダルをもらったよ。こんど、しゃしんをのせます。 ダニエル 

母のつぶやき:

ダニエルは嬉しいことに本を読むのが何より好きで、「そんなに読んでばっかりじゃ、目が悪くなるよ!」と小言を言わざるを得ない程になりました。それはさておき。貪るように読むのは英語の本ばかり。そりゃ、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、英語の方が強いのは仕方ないよね。漢字は難しい!って、いつもブーブー文句を言っているもんね。でもね、ママはライター(のはしくれのはしくれ)でもあること、覚えてて。ダニエルくんや妹のことも一杯、書いてきたでしょ。いつか、ママの日本語の記事を自分で読めるようになりたいよね? 漢字が大嫌いだったら読めないよ。

そんな想いもあって、子育てコラム「親子ダイアリー」連載の皮切りとなったエッセイ「ことばのおくりもの」をここに披露します。(息子はもうすぐ四歳、と書いてあるから、四年以上も前になりました。)ちなみに、英語ブログの方にもダニエルを主役(?)としたエッセイ(もうじき新聞に掲載予定)を加えましたので、そちらも見て頂けると嬉しいです。

ことばのおくりもの

「路傍の石」が読みたい、と無性に思う。娘をストローラーに乗せ、息子の手を引いてゆっくりと歩く午後だ。シアトルの空の下で、なぜ遥か昔に読んだ古めかしい本のタイトルが心に浮かぶのか自分でも分からない。時にはそれが「道ありき」だったり「二十歳の原点」だったりする。中学入試の国語の試験に「路傍の石」の一節が出てきて、ひそかにほくそえんだり、日曜日の特急列車でむさぼるように「道ありき」を読んだりした日が思い出され、ふと感傷的にもなる。さらに思うのは、青春時代に親しんだ本を成長した我が子達と共に読み、感想を語り合う日が来るのだろうか、いや来て欲しい、ということだ。

アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた息子と娘。親となってから私はあえて日本語を大切にする生活をしてきた。アメリカで弁護士の資格を取り、こちらの雑誌や新聞に記事を書いてきた私にとって英語は重要な意味を持つ。だが日本語が私の母国語であり原点であるという事実は変わらない。息子を妊娠中、膨らみつつあるお腹をそっとなでながら私が口ずさんだのは「ぞうさん」だった。お腹が大きくなるにつれて毎晩、決まった時間になるとロッキングチェアに座り「ぐりとぐら」や「ももたろう」を朗読した。

そんな生活は息子が4歳になろうとする今も、3歳下の娘という新しいメンバーを加えて続いている。 お好み焼きの具を一緒に混ぜ合わせながら「かもめの水兵さん」を歌う。 そんなさりげないひとときがたまらなく楽しい。「子供をバイリンガルにして国際人に育てる。」 そんな表現を私は好まない。日本語を教えるのは私にとって国際人うんぬんの華やかなものではなく、もっと素朴で日常生活に溶け込んだものだからだ。 たかがことば。されどことば。ことばが人生をどんなに豊かにしてくれか私自身、身をもって経験している。選択肢が多いほど人生の醍醐味も増す。日本語というプレゼントを子供たちに与えたい。吸収が早い幼少時代に親として土台を築いてやりたい。その土台さえあれば、さらに何を築いていくかは成長した本人次第だ。

「路傍の石」にはほど遠いけれど、息子はお気に入りの絵本「ぐりとぐら」を今夜も私に読んでとせがむ。二人の子供を両側に座らせては、私自身がかつては大好きだった本のページをめくる。 ぐらが蓋を開けると大きなフライパンから香りが立ち込めそうなフワフワのカステラが顔を覗かせている。
「ねえママ、ぐりとぐらってもりのなかにすんでるの?」
「そうだね、こんどさがしにいこうか?」
「うん、それでいっしょにかすてらつくろうよ。」
こんな会話ができるようになったのが嬉しい。 ことばのおくりもの。 息子と娘の寝顔をまじまじと見つめては十年後、二十年後を思い描く今日この頃である。

おともだちのアリスターくんの家へあそびに行きました。 全文を読む »

早春だというのに雪が降るとは! 早く暖かくなって欲しいと切に願いつつ、 全文を読む »

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